―あめ―




「薫殿」
「あ・・」

待ちに待った声が耳に届いて、薫は嬉しそうに俯いていた顔を上げた。
しかしすぐに、その顔は少し曇ったものに変わる。
もうずいぶんと見慣れた緋色の髪と
少し目立った赤い着物
「剣心・・迎えに来てくれたのね」
まるで驚いたように薫は目の前でにこにこ微笑む男にそう言った。
「あぁ、この雨だから困っているだろうと思って。
薫殿、あんなに言ったのに傘を忘れるから」
「ごめんね、わざわざ・・」
「いや、いいでござるよ
さぁ帰ろうか」
「うん・・」
薫はちらっと、剣心の手元を見た。
片方の手には剣心がさしている赤い色の傘。
そしてもう片方の手には、もう一つ閉じられたままの同じ色の傘。
思わず薫はため息をついた。
「はい、薫殿」
そう言って剣心は赤色の傘を差し出してきた。
「ありがとう・・」
「滑るから気をつけるでござるよ。」
剣心は薫が傘をさしたのを確認するとゆっくりと歩き出した。


ここ数日雨が続いている
それに伴って、生ぬるい空気と肌に纏わりつく湿気
梅雨なのだから仕方ないのだが、どうしても気分がめいるものだ
続く雨にうんざりする人々と違って
木や緑や花は
大地を潤す命の雫にさぞ喜んでいることだろう


(・・今回もだめだったか)
剣心の少し後ろをついて歩きながら、薫は残念そうにため息をついた。
最近こうして剣心が薫を迎えに行くということが多い。
梅雨だというのに傘を忘れがちの薫のために、
剣心は嫌な顔一つせずこうして傘二本持って出かけるのだ。
そんな剣心に対して有り難い気持と、申し訳ない気持と
そして自分の気持に気づいてくれないことへの苛立ちと
今日も薫は複雑な気持で剣心の後ろを歩く。

(傘なんて・・一本でいいのに)
足を滑らせないよういつも以上に気をつかって歩調を合わせてくれたり、
荷物がある時は持ってくれたり
そういった気遣いが本当に嬉しいのだが、それでも薫の表情はどこか曇ったまま

(傘なんて・・一本でいいのよ)
伝わらない想いを背中にぶつけるように薫はじっと剣心の後ろ姿を見つめた。
一つの傘を二人でさす。
それが今、薫の中ではちょっとした憧れになっていた。
以前もこんな風に雨宿りしていた時、隣で待っていた女性を迎えた恋人らしき男は
あたり前のように傘を一本だけ手に持ち、あたり前のようにその女性を中に迎えた。
少し狭い中でも、楽しそうに笑いながら帰っていく二人を
薫はただじっと見つめていた。
正直羨ましいと思った。
雨が降れば降るほど並んで歩くことは不可能で。
傘なんてさしてしまえば、その距離はぐんと遠くなる。
少し恥ずかしい気もするが、こうやって一つの傘で好きな人と一緒に歩けば、
この雨さえも心地のいいものになるかもしれない。
薫はそう思ったのだが
肝心の剣心はそのことに全く気がついてくれない。
もうしつこいくらい傘を忘れたふりをして迎えにこさせているのに、
当の本人は相変わらず傘を二本持って同じような笑顔で薫の前にあらわれる。
そんな剣心にたいして、薫はいつも小さくへこむのだ。
まわりから見れば不可解なものかもしれない。
わざと迎えに来させてそのくせに不満を持って。
ただ一言、「一緒の傘に入りたい」といえば剣心は快くそうしてくれることだろう。
それなのに彼から気づいてほしいと思うのはわがままなことだろうか。


「薫殿、夕飯は何がいいでござるか?」
「うーん・・昨日の南瓜の煮物、まだ残ってる?」
「あぁ、あるでござるよ」
他愛無い会話を交わしながら家路に向かうこの時間が好きだった。
剣心には迷惑な話しかもしれないが、
やはり好きな人迎えに来てもらうのは嬉しいものだ。
しかしこの距離だとやっぱり少し遠い。
傘をさしていれば手をつなぐことだってできない。
雨の音が邪魔をして、声だって聞き取りにくい。
(・・ほんと、わかっていないのね)


剣心に気づいて欲しいと思うのは
彼にも同じ気持であってほしいから
こんな雨の日は特に互いのぬくもりを近くに感じていたいと
狭くても居心地悪くても、一つの傘に入って歩きたいと
そんな風に彼にも思ってほしいのだ。
それは普段この男がめったに見せない愛情を確認したいがため
すごく大切にしてくれているのは十分にわかるのだけど、
自分の方が彼を好きな気持があまりにも勝っている気がして。
とても小さなことだけど、薫には大切なこと。

せっかく想いを通じ合っても、剣心に気持が伝わらない
剣心の気持がわからない
言葉なしで通じ合うことなど不可能なのだろうか
そんな不満と不安がしたって
さらにはめいるような雨が続いて
薫はまた、ため息を一つ零した


しかし、これくらいでめげる薫ではない
今度こそ、と薫は心の中で呟いた





「おろ?」
「だから、傘を忘れてきちゃったの」
ひらりと着物の裾をひるがえし、出かけ際に薫はそう言った。
「忘れたとは・・どこにでござるか?」
「前川道場かな?
持って行ったのに雨降らなかったから。」
特に悪びる様子もなく薫はそう言った。
「次行った時にちゃんと持って帰ってくるわ。」
「そうでござるか・・」
「それじゃぁ剣心、いつものとこで待ち合わせね。
買い物一緒に行くんだから、先に済ませちゃわないでね。」
「わかってるでござるよ」
「それじゃあいってきます」
「あ、薫殿」
「なに?」
「なにって、傘を・・」
「今降ってないじゃない」
「しかし今日は降りそうでござるよ?」
「剣心が持ってきてくれればいいわ。
傘一本しかないし。
待ち合わせまでは大丈夫よきっと」
そう言うと薫はさっさと出かけて行ってしまった
「・・いってらっしゃいでござる・・」



今日こそは
そんな気持を込めて、薫は空を見上げた
剣心の予想は当たる
きっと今日も雨だろう
前川道場にはわざと傘を忘れてきた
そうすると家に残る傘は一本だけ
赤べこに用のある薫は先に出かけ、家事を済ませた剣心と後で合流し
一緒に買い物に出かける約束をした
これも作戦のうち
一緒に出かけて雨が降ってくればさす傘は一本
当然二人一緒に入ることになるだろう
あまりにも計算ずくな自分の作戦に少しばかり情けなさを感じながらも
薫はその瞬間を待ちわびた
「雨、はやく降らないかな・・」



赤べこに迎えに来た剣心を見て薫は絶句した。
「薫殿、すまぬ少し遅くなってしまった」
申し訳なさそうに微笑む彼の手には二本の傘。
「・・剣心」
「ん?」
「その傘・・」
「あぁ、家のことがはやく終わって時間があったから前川道場に
取りに行ってきたのでござるよ
傘一本ではなにかと不便だろうと思って」
「そ、そう・・」
薫はひきつる口元を隠せなかった。
「さ、はやく買い物を済ませてしまおう
もうすぐ降ってくるでござるよ」
薫は再び落胆のため息を吐かずにはいられなかった。



鈍い
鈍い鈍い鈍い
あまりにも鈍すぎる
結局、二人が家路に着くまでの間雨が降ることはなかった。
両手に荷物を抱えて、さらに傘を抱えて
一本あるだけでも邪魔なのに、
どうして使わないものを二本も持たなければならないのか。
家に帰ってからも薫の機嫌はすこぶる悪かった


「薫殿?」

「薫殿、お茶を飲むでござるか」

「薫殿、風呂の用意ができたでござるが・・」

様子を伺うように話しかけてくる剣心に薫はますます苛立ちを覚える。
どうして薫が怒っているのかさっぱりわからない剣心は
半ば諦めたように最終的には話しかけるのをやめてしまった。
どうやらそっとしておいた方がいいと思ったのだろう。

居間に二人でいても会話が交わされることはなかった。
しかし、先に気まづくなったのは薫の方だった。
胡坐をかきながら本に集中している剣心にそっと近寄り、後ろから寄りかかる。
「・・機嫌直った?」
子供をあやすようにそう言われて、薫はばつ悪そうに頷いた。
「・・ごめん」
そんな薫の頭をぽんぽんと撫でると、剣心は向き合うようにして薫を抱きしめた。


こんな風に勝手に怒って機嫌を悪くして
それでも怒らない剣心
そんな彼に対して自分がどうしようもなく嫌な女に見えた。
きっと剣心は、薫が怒っていた理由が傘にあるなどこれっぽっちも思ってもいないだろう。
むしろ彼は好意でしたこと
彼が怒られる理由などなにもないのだ
それでもやはりどこか納得いかなく思う自分は
とことん子供なのかもしれない
(・・次こそ・・)
剣心の胸に抱かれて、懲りずにそう思う自分に思わず薫は苦笑いした。


だけどここまできて諦めるのは悔しい
こうなったら最後の手段
次こそは絶対にうまくいくはずだ





ぱらぱらと雨が降って
薫はじっと、ひっそりと咲く紫陽花を見つめていた。
今日は意味もなく一人で遠出した。
雨が降るまであちこちを歩きまわって、少しばかり疲れてしまった。
今日こそは絶対に一つの傘で帰れる自信があったのだ。
剣心が傘を二本持ってくることは不可能なのだから。

幅の狭い屋根に雨宿りしているため足元が少しずつ濡れてきた。
思っていたより激しい雨に薫は今頃あちこちを探し回っているであろう剣心に
申し訳ない気持でいっぱいになる。
(・・今日成功したら、もうやめよう)
たかが小さなわがまま一つのためにずいぶん剣心を振り回してしまった。
家事で忙しい中わざと迎えに来させて
やりたいことだってあるだろうに彼の時間をつぶして
余計な心配ばかりかけて
それでもやめないのは、もうほとんど意地かもしれない。
「・・わたし馬鹿だな・・」
頭の中では十分すぎる程わかっているのに、期待せずにいられない。
「今日だけ、今日だけだからね」
まるで言い聞かせるよう、薫は紫陽花に向かってそう言った。




ふと、視界に待ちわびた人が写った。
自分のことに気づいたのか、彼は足をはやめてこっちに向かってくる。
「け・・」
走ってきたのだろうか
足元をびしょびしょに濡らしてやってきた剣心に思わず喜びの笑顔を
向けようとしたが薫の表情が再び、固まった。
「薫殿!こんなところにいたでござるか」
ほぼ傘をさしている意味がないほど濡れた肩や髪は剣心が必死で薫を
探していたことを教える。
しかしそんな剣心にたいして薫から出た一声は怒鳴り声だった。
「なんで傘二本持ってるのよ!!」
怒った顔でそう叫んだ薫に剣心はあっけにとられ、ぽかんと口を開ける。
「え・・?なんでって・・」
「どうやって見つけたのよ!
その傘はっ・・」

―見つからないよう、隠しておいたのに

息を切らしてそう言う薫に剣心はじっと手に持っていた赤い傘を見つめた。
「・・たまたま蔵に用があって開けたら・・そこにあったのでござるが・・」
怪訝そうにそう言う剣心に、薫はとうとう涙を零し出した。
「か、薫殿?」
泣き出してしまった薫に、剣心はさしていた傘を放り出し近寄る。
「薫殿、どうして泣くのでござるか?」
「う〜〜〜〜〜馬鹿ぁ〜〜〜〜〜」
終いにはしゃがみ込み、すんすんと泣き出す薫。
剣心はどうしたらいいのかわからず、おろおろと慌てた。
「傘なんて一本でいいのよ〜〜〜〜〜」
膝に顔を埋めてそう言う薫に、剣心はやっと事の意味を察したのか今までの
薫の行動を思い返した。

「・・なんだ。そういうことでござったか」
剣心はまるで謎々が解けたような顔で微笑んだ。
「全く、薫殿は困った御仁でござるな」
呆れたようなその声色に、薫が顔を上げた。
顔中涙でぼろぼろだ。
「泣くことではないでござろう」
「だっ、だってぇ・・」
「一つの傘で、歩きたかったのでござるか?」
「・・・」
薫はひっくと喉を鳴らしながら頷いた。
「やれやれ、拙者はてっきり迎えに来て欲しいからあんな不可解なことを
しているのかと思っていたでござるよ」
「・・気づいてたの・・?」
「そりゃぁもちろん。
梅雨のこの時期に毎回のように傘を忘れるなんてどう考えたって
おかしいでござろう」
懐から出した手拭いで濡れた薫の顔を拭いてやる。
「言ってくれればそうしたのに・・ずいぶんと遠まわしなことをしたでござるな」
「だって・・気づいてほしかったんだもん・・」
「女子の気持を理解するには拙者はちと経験不足でござるなぁ」
そんな風におどけていう剣心に薫もつられるように笑った。

「それなら、今日はこの傘は必要ないでござるな」
閉じたままの赤い傘を脇に抱え、剣心は薫の手を引き立ち上がらせた。
「剣心・・びしょ濡れ・・」
「おろ・・あまりさす意味がないでござるかな」
ははは、と笑いながら剣心は地面に放り投げたままの傘を取る。
「さぁ、帰ろうか」
剣心の手が差し出されて
「・・うん」
少し腫れた目を細め、薫はその手を取った。




初めて二人で入った傘は、やはり少しだけ狭く感じた。
寄り添うように並んで
剣心の手が濡れないようにと薫の肩を抱く。
そのくせ剣心の肩はもうずいぶんと濡れてしまっていて
「・・やっぱり一つじゃ足りないね」
「もう少し大きい傘が必要でござるな」
うーんと考える剣心を薫はじっと見つめた。
「・・ねぇ剣心」
「なんでござる?」
「・・わたしがわざと傘忘れていくの知ってて、どうして何も言わなかったの?」
いちいち迎えに行くのはさぞ面倒なことだっただろうに。
ましてやそれがわざとと知っていたなら、文句の一つも言いたかったに違いない
「そんなの、拙者が迎えに行きたかったからに決まっているでござろう」
さも当たり前のように剣心はさらりと言った。
その言葉に薫の目が見開く
「意外に楽しんでいるのでござるがな」

迎えに来てもらって
二人一緒に家まで他愛無い会話を交わして帰るのが薫は好きだった
剣心も同じ気持だったということだろうか

「それしても・・」
「なに・・?」
「こうやって、一つの傘で帰る方がもっといいでござるな。」
なんだかどこか嬉しそうにそう言う剣心に薫も微笑む。
「・・あ」
「?」
突然立ち止まった剣心を薫は不思議そうに見た。
「薫殿、今拙者が考えていること、わかるでござるか?」
「え?」
薫は首を傾げて考えた。
「・・わかんない」
「こうゆうこと、でござるよ」


そっと触れたそれは、雨の味だった。
重ねるだけの、しかし少しだけ長い口付けが離れると
してやったりとにやつく剣心の顔があった。
「・・なっ・・」
「薫殿も、男の考えていることを理解するには
まだまだ経験不足のようでござるな」
にへらと笑って剣心はちゅ、ともう一度開いたままの薫の唇に口付けた。
「・・ばか。」
それだけ言うと、薫は赤く染まった顔を隠すように剣心の腕にしがみついた。


まだ当分梅雨が明けないで欲しい
言葉なく、二つの心が囁いた





(終)






女の子はちょっとわがままでわけがわからない方が可愛いですよね。
そんな薫殿を最大に甘やかして欲しいものです。











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